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    日々、偶景から




               

                 家具デザイナー近藤正樹氏の制作したテーブル。
                 表参道(原宿)の画廊で出会う。六つのピースが可変性で、さまざまな形に変貌できる。


                 某日、加藤武先生とコラボレーションで行う研究発表の相談のために三島に行った。
                 いつも同じ、「櫻家」で鰻重を食し、源兵衛川に沿ってしばらく散策し、「欅」で
                 お汁粉をいただく。この般若面は「欅」の壁にあったもの。先生は問う、「これは
                 人間のどのような情念を表現していると思いますか?」
                 「どうあっても鎮めることのできない憤怒ですか」と言いかけて黙る。こんな凡庸な
                 答えのはずはない。何かあるぞ。
                 「わからない?」と先生は試しにかかる。「あのね、痒いんだ。背中の手の届かない
                 ところが痒くて仕方ない。助けてくれー、痒い、痒い。そのときの顔がこれなんだ」
                  まいりました。     
             

                 三島市内を流れる清流「源兵衛川」。夏の終り、親子連れが水遊びをしていた。
                 橋の上でカメラを構えていた私の横から、幼い女の子が、川に飛び込んで喝采を受けた。
                 清流の感触の懐かしさが甦る。
                 杉並区久我山、玉川上水から農業用水に引き入れた小川があった。
                 森に囲まれた秘密の水遊び場で、少年たちは丸裸で泳いだものだ。

 



               肥やしの底チカラ展
                  

                 ゼミ生のI君が、博物館実習をしているので、「葛飾区郷土と天文の博物館」を訪問。
                 たまたま、江戸から昭和30年代前半まで行われていた人糞処理をめぐる企画展をのぞく。
                 高校一年まで、水洗便所など知らない生活をしていたので、懐かしいことこの上なかった。
                 都市近郊の農村地帯として、葛飾は水路が豊富で、
                 糞尿処理と運搬に大事な役割をはたしていた地域だった。
                 


                 森谷式という糞便壺。
                 こうした堂々たる容器に、大事に溜めるのが、かつての糞便だった。
                 都市と田園がリサイクルを成し、売買の対象でもあり、糞便は貴重な資源だった。


                 ジョーズ型便器? このユーモラスなデザイン感覚に、思わず見惚れてしまった。
                 しかし、尻を出してまたぐのは怖いかもしれない。


                肥桶
                 東京の杉並育ちの私でも、子供のころ日常的に見ていたものが、こうして展示品として
                 置かれると、いかに異文化の中にいたか、しみじみ実感する。
                 下肥を使っていた頃の野菜のおいしさの証言もたくさんある。「小松菜など、とても柔
                 らくて手で持っているうちに、ゆだってしまうほどだった」「こかぶはリンゴのように
                 甘く、腹が減ると、泥を落としてがりがりかじって食べた」とか。


                   古い便所の復元。昔の家屋の便所は、まあ、こんな感じだった。
                   この明りの漏れ方に懐かしい気配が漂う。


          セメンエンと回虫駆除薬
           小学校3年のとき、4人も検便で回虫が見つかり、私がその一人。
           この薬を教室の前で飲まされた。クラスの人気者の「まいこ」ちゃんも一緒で、
           はずかしくて、泣きだしそうだった。
           翌日、下校途中に尻からうどんのような回虫が勝手に出てきたので、どぶに捨てた。


              汲みとり船の写真
               糞尿運搬船は、行楽用の輸送船にもなった。
               実は、肥船は装飾が派手で、船首や船尾にたくさん化粧金具を使ったものもあった
               という。かつて肥船一艘で大きな儲けを産み、船頭は空船で東京の料亭や遊郭に出
               かけたほど羽振りがよかったらしい。

            

          




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