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    日々、偶景から



                  

                 『小島信夫短編集成』全8巻(水声社)、編集委員の一人として参加したほか、
                  第6巻の『ハッピネス・女たち』に解説「〈うろおぼえ〉という作法」を執筆。



             小島信夫についての若干の追懐

                 新宿ミラノの閉館の最終日(2014年大晦日)に出かけ、かつて上演された
                 映画の当時のポスターが飾ってあった。『ラスト・エンペラー』がそのひとつで、
                 小島信夫さんと同館で見たのは1988年の2月。
                 溥儀とコオロギのシーンの効果について(これを小説で書いたら、ここまで効果が
                 あったかどうかとか)話したほかは、会話の中身はほとんど何も憶えていない。帰
                 りに、東京飯店で食事をしたが、同行した愛子夫人に満州国の成立について、なぜ
                 か改まって講義口調で説明したのだが、あれはなぜだったのだろう。






閉館した新宿ミラノの最終日の最終上映(『E.T.』)の後の名残の喝采。

                 






                 1989年秋、小泉八雲賞の選考委員をしていた小島さんから、一緒に松江と出雲に出かける誘いを
                 受けた。候補作は事前に教えてもらっていたので、私の意見も述べた。結果、予測は外れ、河竹登
                 志夫の『歌舞伎美論』になった。選考経過について、小島さんは一言も話す気配はなかった。

                 
                 その後、出雲の掛合町の旧家を会場に開かれていた文化懇話会「掛谷塾」の集まりに小島さんは呼
                 ばれていて、原石鼎について短い話をした。終わってその旧家の座敷で宴会となり、その地では珍し
                 いクリスチャンのOさんと知り合いになった。Oさんは、短歌を読み、無農薬でお米を作っている人で、
                 小島さんはこの人に大いに関心を持ち、すっかり意気投合した。

                 
                 当夜、私たちは宴会場の隣の広い和室に泊ったが、柱時計が深夜の時報を告げ、そのたびに目を覚
                 まして寝られなかった。小島さんの溜息も聞こえた。しかし手入れの行き届いた庭も含め、その出雲の
                 旧宅は忘れ難い。

                   
                 私は一足先に帰ったが、小島さんはOさんの水田を見に行った。後日、東京に帰ってから、山の上にあ
                 る天上の楽園のような田圃について、くわしく話を聞いた。

                 以来、小島さんは愛子夫人が元気なあいだ、Oさんからお米を直送してもらっていた。私も今にいたるまで、
                 小島さんの思い出につながるOさんと交流が続き、お米を送っていただいている。

                 
                 しかし、Oさんは2年前に奥様を亡くされ、84歳でひとりでお米を作るのも限界とのこと。実は私自身はOさん
                 の山の上の田圃は見たことがなく、ようやく今年の三月に念願の訪問をはたした。笑みを絶やさないOさんと
                 の再会の嬉しさは、ただひたすら感謝の気持ちが湧きあがるばかりだった。

                 
                 梅の花の匂う季節、天上の田圃はいかにも栄養がありそうな泥土で、季節の到来を待っていた。この地は、
                 古事記に稲作の到来が記されている場所でもある。




                  池袋



池袋を散策し、自由学園明日館の門扉の角度に心惹かれた。




       同日、目白庭園の池の鯉の一匹が、なぜかひたすら後ろへ後ろへ逆泳していて、見とれてしまった。


          




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