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短いプロフィール

1946年(昭和21年)、東京の杉並生まれ。幼児期に北海道函館市にいた以外は、転居すること14回(止むを得ず)、東京周辺で生活をした。
立教大学文学部英米文学科卒業後、都市出版社(旧)で主に海外文学の編集に携わる。
同社勤務を経て、立教大学大学院を修了し、東海大学、獨協大学、専修大学、明治大学の各非常勤講師を経て、1978年(昭和53年)大東文化大学文学部専任講師となる。大東文化大学では、比較文学、英米作品講読、文章制作法などを担当。2017年(平成29年)3月退職、同大学名誉教授となる。
1993年(平成5年)12月、「冗談関係のメモリアル」により第77回『文學界』(文藝春秋社)新人賞を受賞。
「ドッグ・ウォーカー」、「森への招待」がそれぞれ芥川賞候補となる。
小説としては『月の川を渡る』(作品社)、『風の消息、それぞれの』(作品社)、 『チェーホフの夜』(水声社)、『転落譚』(水声社)、『風の湧くところ』(風濤社)。 「森への招待」を収載した『芥川賞候補傑作選・平成編2』鵜飼哲夫編(春陽堂) がある。
また短篇小説のアンソロジーの編著に、『生の深みを覗く』『この愛のゆくえ』 (以上、岩波文庫)、個人文学全集の内容見本(パンフレット)の推薦文を のアンソロジー『推薦文、作家による作家の』(風濤社)など。
若い世代向けの著作として『いま、きみを励ますことば』『書き出しは誘惑する』 『はじめての文学講義』(いずれも岩波ジュニア新書)がある。

若干の自註

1、都市出版の社長は伝説的な編集者の矢牧一宏。雑誌『都市』の編集長は詩人の田村 隆一だった。この頃の回想は、『脱毛の秋――矢牧一宏・追悼文集』(社会評論社 )、 および『水声通信』(水声社)12号(特集・なぜ出版なのか)に記した。この会社 の先輩編集者だったのが、ふみくら書房代表の小松裕美子。
2、矢内原伊作・宇佐見英治を中心とする雑誌『同時代』に参加した時期がある。この雑誌を通じて、川崎浹、高橋世織、吉田加南子の各氏と知り合った。2016年に第三次の同人として参加するも、2017年4月に同会は解散となった。黒の会は存続し、『黒の会手帖』を刊行。その後、第四次が発足、編集委員を務める。
3、小島信夫との親交は、1980年代半ば頃から始まった。映画、芝居、旅行などに  同行したのは、まだ愛子夫人が健康だった88年から92年頃。
4、『文学空間』二十世紀文学会発行(風濤社)の編集に携わるが、10号にて休刊。
5、長文版の(その2)にある、日比谷公会堂のエピソードは、『遡行譚』(仮題)に入れる「日比谷公会堂と靴下と」で触れた。これはいずれ紹介予定。



                           
    誰が何と言おうと本人が近く感じるものは近いのであり、

         
したがって「近影」のほうが本当の姿に近い。


                      
         ほんの半世紀前の近影              はるか3年前の遠影(ロンドン)             

                      






プロフィール(長文版)


 〈その1〉 生地、父の死、函館の海の匂い
 1946年4月21日、東京都杉並区・荻窪(旧・西田町)生まれ。姉と弟がいる。
 父、中村伸康は北海道択捉島の網元の生まれ。青年期に函館に転居。キリスト教会に通い、牧師を志望して日本聖公会の神学校(池袋)に入るが、自治活動の争議がもとで退学。同じキャンパスの立教大学文学部史学科に編入学。ジャーナリストを志し、卒業後、国民新聞を経て、同盟通信社政治部記者となり、海軍省黒潮会に属し、アジア各地をまわった後、首相官邸詰めとなって終戦。同僚の記者であった中屋健一(後にアメリカ史の研究者)、同じく殿木圭一(後に日本新聞学会会長)と親しく付き合う。
 弟、中村邦介は日本聖公会牧師、立教女学院院長を務めた後、聖公会神学院校長。
 母、中村包(かね)は、文京区小石川生まれ。実家は都内各地に土地を持つ裕福な暮らしであったが、包の父(私の祖父)が後妻に贈与したこと、かつ伸康が名取洋之助らの『サンニュース』発刊に参加し、倒産したことで資産を失った。
 父、伸康の病気療養のために函館に戻る。それに伴い五歳から六歳にかけて函館で、叔父、叔母たちの大家族とともに生活。従兄弟たちと、大森海岸で初めて海水浴をしたが、その海の記憶は打ち上げられた海藻の匂いとともにある。伸康は肺結核で、1951年(昭和26年)5月、函館にて42歳で病没。邦生5歳。
邦生も小児結核に罹るが、治癒した。病院で投与される茶色の液状の飲み薬にいつも抵抗し、母を困らせた。母は私を連れて競輪場に新聞を売りに行ったり、イカ干しの仕事をしたりして生活を支えた。



 〈その2〉 Life誌、母の靴下売り
 母は仕事を求めて、姉と弟を函館に残して東京の荻窪の家に戻った。函館から連絡船、東北本線で上野まで、鈍行で丸一日かかった。弁当代が私の分しかなく、母は我慢を通していると、向かいの席の客が事情を察して、リンゴをくれたという。「あれが人生で一番おいしいリンゴだった」と母が後年回想していた。姉が東京に戻ったのが一年後、弟は函館の叔父(父の末の弟)の養子になり、別に育つことになった。叔父は北海道警察の事務官で、夫婦ともに熱心な日本聖公会のクリスチャンだった。
 先に東京へ戻った母と私は、まだ新婚所帯で運輸省の無線技士であった叔父(母の弟)としばらく同居。上野駅に迎えに来てくれた叔父夫妻が、「大きくなった、大きくなった」と喜んでくれたのだが、私は誰なのか思い出せず途惑った。と同時に、母のみすぼらしい姿を見て、叔母は泣き出し、すぐに服を買いに行った。私は叔父と二人で駅の構内で待っていた。この叔父と母は、仲の良い姉弟で生涯にわたって支え合った。これは、私の姉に対する敬愛にも大きな影響を与えた。。
 荻窪の生家は借家であったが広い庭があり、隣家は鶏小屋のある屋敷林であった。この家の八畳の床間には、父の残したカラー印刷の洋雑誌(たぶんLife誌だったと推測している)が積んであり、私は乗り物の写真を見つけては楽しんだ。これが英語の活字に接した最初の経験だった。洋雑誌には独特の活字の油性の匂いがあり、薄暗い部屋に立ちこめていた。この匂いの懐かしさに、一九四十年代のLifeを買い求めたりする。
母は早稲田にあった靴下の染め物工場に勤める。東中野からボンネットのバスに乗り、早稲田に向かった。保育園のない時代、毎日私を工場に連れて行った。染物の仕事の合間に、靴下を父のかつての同僚たちの働く共同通信社と時事通信社へ売りに行った。ロビーに小さな店を広げたが、当時の共同通信社と時事通信社は、日比谷公会堂の南側、いまの地方自治会館にあった。かつての記者仲間たちが、靴下を買い、何やら一声かけては私の頭を撫でていく。私はそれが不愉快であったが、中村伸康の遺児に同情してのことだとは、子どもには判らない。しかし亡くなった父のことを思い、「姉さん、そんなことをするのはよくない」と叔父は止めさせたと後年語っていた。



〈その3〉 初めての英語学習、詩人の木工職人、十歳の詩集
 1953年(昭和28年)杉並区立西田小学校に入学、一学期で川崎市立古川小学校に転校、母親が児童文学者の福地文乃の紹介で学生寮の寮母となったことに伴い、1954年(昭和29年)二年次から杉並区立荻窪小学校に転校。
 学生寮時代、寮生だった東京外語大学のフランス語専攻の学生から初めて英語を習う。 アルファベットも判らないうちから、いきなり講読テキストにアラジンとかアリババのアラビアン・ナイトの絵本を渡され、口真似で音読中心の学習が続いた。これによって、後々まで悩まされたのは、イギリスのイメージがアラビアン・ナイトの世界と一体化し、頭にこびりついたことだった。
 また、隣地のミシンの木製収納部の工場で働く木工職人が同人誌に詩を書いている人で、詩作の手ほどきを受ける。このことは、何度か書いてきたエピソードだが、ほぼ毎週一篇ずつ詩を持参し、批評を受けた。きっかけは私よりの一歳年長の少年の詩が評判になっていると教えられ、にわかにライバル心を持ったからだ。その人に岩田有史『父の口笛――十歳の詩集』を借り、他人の書いた文章に強い嫉妬を覚えた最初の経験であった。このタイトルの「父」の一語にも、まぶしい思いを抱いた。
 後年(二十一歳の時)、京王線の明大前駅の近くにあった小林書店(間口が一間ほどの小さな古書店であったが、大好きな本屋だった)で『父の口笛』(小山書店)を発見、なんと草野心平の推薦文つきだった。おそらく、少年の父が『歴程』に関係した人だったのではないかと推測している。
 学生寮の閉鎖により、母は東京都民銀行(現きらぼし銀行)に入行、杉並区立久我山母子ホームに転居、1956年(昭和31年)三年三学期四年次から杉並区立富士見ヶ丘小学校に転校した。



〈その4〉 神保町行き、詩人校長、母子ホームの共同生活
 小学校5年の夏、初めて一人で渋谷から岩本町行きの都電に乗って神保町の古本屋街に出かけ、10円均一本の棚(ワゴン)をあさる楽しみを知った。以来、今日まで古書店まわりは、生活の不可欠な習慣になっている。ちなみに、5円均一のワゴンで最初に買った本は、ドーデ『風車小屋だより』(岩波文庫)。このことは、『いま、きみを励ますことば――感情のレッスン』で少し触れている。
 富士見ヶ丘小学校卒業し、1959年(昭和34年)富士見ヶ丘中学校に入学、校長は『ボタンについて』で第4回H氏賞を受けた詩人の桜井勝美。北川冬彦の『時間』の同人で、志賀直哉論もある。毎週月曜朝礼の、桜井校長の軽妙な話を楽しんだ。校長は大相撲の大鵬の大フアンで、優勝すると訓話が調子づいた。
 杉並区の福祉施設の母子ホームの生活は、上は浪人生から下は小学校低学年まで子どもたちが、入り乱れ、荒々しさと協調が複雑に絡み合った、濃密な共同生活であった。誰かがホームの外の悪ガキからいじめにあうと、年長者はチエーンをバンド代わりに腰に占め、全員が隊列を組んで復讐に出かけた。近隣では、ホームの子は恐れられた。遊びも破天荒で、畑荒らし、線路の石置き、その他多数、今なら確実に犯罪集団として補導される。年少の子が学校で悪い成績を取ると、都立の西高校に通っていた高校生(一浪して東京工業大学の工学部に入った)を中心とする年長者から厳しい制裁も受けた。幸い私は、要領よくその難を逃れていた。



〈その5〉 高校の担任、驚異の読書家との出会い、丹沢登山
 1962年(昭和37年)東京都立町田高校に入学、文芸部に属す。三年間のクラス担任は後に駒澤大学教授となる中国哲学者・中村璋八で、国語と漢文を習う。『五行大義』の研究で知られる。英語の担当は後に専修大学教授となるホイットマン研究(著作に『白樺派の文学とホイットマン』)のアメリカ文学者の鈴木保昭。
 同じ文芸部でクラスメートのSK君(後に埼玉県の中学の社会科教員となった)は驚異的な読書家で、図書館にあった筑摩書房の世界文学大系と講談社の現代日本文学全集を次々と読破し、私はそれを追いかけるように読書の日々を過ごす。二年次の夏休みの読書として、ニーチェとサルトルの著作の挑戦を受け、背伸びの読書の重要性を自覚するが、ついに卒業までSK君の読書量をしのぐことはできなかった。また、中村先生の国語の時間に「教師は聖職者か、それとも労働者か」と詰め寄る女子生徒もいた。横須賀に原潜寄港の抗議デモに出かけるなど、あれこれの理由で授業をたびたび欠席。学校の終わる土曜の午後から、丹沢登山に出掛けることが楽しみだった。



〈その6〉 ハンダ付け、アスベスト工場、その他、羊羹作りまで
 高校卒業後、彷徨の2年間を過ごす。大学へ進学したならば、読書と創作と勉強に集中したいという健気な意志があり、夜学に進むつもりはなかった。したがって、大学進学の学資を得るために、さまざまな職業を経験した。
 岩崎通信機の受話器の導線作り。ハンダ付けの臭いに耐えられなくなり短期で終わる。日本橋郵便局の書留の記録付け。朝日新聞に連載していた林房雄の文芸時評に刺戟を受けて評論を書いている千葉大のアルバイト局員と連日大いに議論をするが、ある日、忽然と姿を消した。
 日当の安さに、郵便局を辞めて、横浜埠頭で重さ30キロの飼料袋を運ぶ沖仲仕の仕事をするが、ベテラン作業員がいっぺんに2袋担ぎ上げるのに対して、1袋やっとの始末。4日で馘になった。新宿の大久保駅前の書店に勤務。二浪中の先輩アルバイト店員が、オーストリアのユダヤ系作家シュテファン・ツヴァイクの熱心な読者で、多くを教えてもらうが、この人も忽然と姿を消した。
 続けて私も辞め、賃金のよかった世田谷の玉川電車の豪徳寺駅近くにある石綿(アスベスト)加工の町工場で働く。社長と従業員2名の小さな会社で、チリとカナダから輸入された石綿の原石を薄く剥がす仕事だった。主に電気トースターの絶縁板用。まだ健康被害が警告されない1965年のことである。2か月続けたが、今でも咳が出るとアスベストの肺疾患の不安をいだくが、今のところが発症はない。この町工場の社長は詩作をする人で、石綿の原石の入った木箱を挟んで向かい合って作業をするのだが、好きな詩人について熱をこめて語る姿は、私に読書欲をかき立てた。山之口貘を知ったのもこの人を通じてだった。
 飯田橋の日本出版販売では働くものの、一か月もしないうちに他のアルバイト仲間たちの実行した書籍の窃盗事件に巻き込まれ、共犯を疑われた結果、首となる。好きな仕事だったが、まさか誰かが実行すると思わず、昼休みに冗談で本の持ち出し方を教唆したのだから仕方なかった。
 調布市仙川の榮太樓本舗で、羊羹作りの作業をする。二本の棒を回転させながら大きな窯で小豆、砂糖、水の規定量を守った作業の一工程が終わると、煮あがるまで2時間ほどの間ができる。この待機時間に読書ができ、現場の責任者も穏和で親切な人だったので、結局、この仕事が一番長続きした。
 この期間、仕事が終わると代々木にあった予備校の代々木学院に受験英語を、実用英語を津田スクール・オブ・ビジネスに習いに行った〈後者は一年のみ〉。代々木学院では中西進の古典、鎌田正の漢文の講座もあって、授業料を払わず熱心に盗講した。今は存在しないこの予備校は、受験生のためというより、大学研究者たちのアルバイト先だったように思う。だからこそ、授業は面白かったのだ。中西進は朝作ったばかりだという俳句を披露したこともあり、これは何十年もたってから、小説の情景描写に転用させてもらった。正式に受講申し込みをした英語の講座の中で、有名な某英文学者がいて、オスカー・ワイルドの『カンタヴィルの幽霊』とか『幸福の王子』を講読テキストにしたのはいいのだが、呆れるほど低調な話しぶりだった。それでも授業に出ていたのは、払った授業料がもったいなかったこともあるが、ワイルドへの関心からだった。



〈その7〉
 大学入学以降のことは、次回以降に記す。