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書評『本の森 翻訳の泉鴻巣友季子著(作品社)
『週刊読書人』2013年11月22日号


 偶然の一致というものに、私はとりたてて特別な感慨など抱いたことはな
いのだが、今回たまたま最初に本書の真ん中あたりのページを開き、いきな
り目に入った小説のタイトルが、ジーン・リースのゴースト・ストーリ“I
Usedto Live Here
”だったのには、少なからずゾクッとした。ちょうどその
一週間ほど前に、ジョイス・キャロル・オーツ編のアンソロジーからこの掌
編を選び、ある会で「怖いだけじゃ、本当は怖くない」などいうテーマの話
をしたばかりだったからだ。幽霊物語をややからかう感じの口調になってい
たかもしれない。それで、偶然に開いたページの見出しが「憑く家、憑かれ
る家」というものであることを知り、ちょっと厳粛な気分とやっぱり懲りず
に軽い笑いがもれた。

 もちろん、そのリースの小説は魅力的なものであるが(エンディングの場
面に関し、女がマンゴーの木の下で見た女の子は、かつての幼い日の自分の
姿ではないかと述べた学生がいて、思わず「それは、面白い」と応じたりも
した)、私が本書でさっそく感心したことは、この掌編から「過去や未来の
さまざまな作品の谺が聞こえるようだ」とヘンリー・ジェイムズ、ヴァージ
ニア・ウルフなどの具体的な小説を引き寄せる聴覚の良さと、『レベッカ』
のヒロイン(語り手)の「見えなさ」の謎に分け入り、リースの小説の女と
「同じ立場にあるのではないか」(要するにゴースト)と推定する読みの洞
察だ。著者のレベッカへの思い入れは説得力があって(「レベッカ追想」)
、いささか敬遠気味だったこの作家への私自身の認識の空隙をつかれた。一
読者として、ぜひとも鴻巣友季子個人訳による『デュ・モーリア全集』の実
現を期待したい(もう、ひそかに企画が進んでいる?)。いずれにせよ、著
者の〈聴覚〉の良さは、卓抜な〈連想の力〉と同義なわけだが、たとえば「
分身と群集」のテーマにせよ、「読書つれづれ日記」にせよ、随所に〈連想
の移動感覚〉のようなものが心地よく感受できて、それは本書を読む喜びの
一つであった。

 このことと関わるのだが、著者には作品の持つ妙趣を〈かいつまんで伝え
る〉批評的話法があって(あらゆるジャンルを通じて、この唯一無二の達人
は淀川長治であったが)、しばしば刺激的な読書案内を行う。一例だが、作
中にウクライナのトラクター小史という大真面目な論文が挿入されていると
いうウクライナ系イギリス作家マリーナ・レヴィツカの『おっぱいとトラク
ター』や言語的齟齬の問題をラディカルに内在させたインド系イギリス作家
インドラ・シンの『アニマルズ・ピープル』など、私はそわそわ感が膨らん
で、落ち着きを失った。この著者の言葉を通すと、なぜかどの作品も鮮度が
よく感じられるせいだろう。

 本書には、小説好きの読書のための支援キットがあることにも触れておき
たい。「ファミリー・クロニクルの今」で論じているのは、角田光代『ツリ
ー・ハウス』、朝倉かすみ『夏目家順路』、江國香織『抱擁、あるいはライ
スに塩を』であるが、この三作の家族小説としての構成や叙述形式の対比性
を図解入りで説明しながら、横断的分析を試みる。これは今日的なファミリ
ー・クロニクルの考察に際して、なかなか有用な読みの支援キットであり、
同じことは、村上春樹の『1Q84』を論じた「『1Q84』――コンセプ
トを孕む」やヴァージニア・ウルフの『灯台へ』の翻訳上の問題点を検討し
た「カンバスと靴下」にも言える。いずれも言葉への丹念な観察眼と批評的
発想の弾力を感じさせるものだ。
 さらに貴重な論述としては、翻訳をめぐる考察がある。これだけでも本書
を一読する価値がある。日文研の研究プロジェクト・リポート「翻訳におけ
る操作」と「翻訳つれづれ日記」を併せて読むことで、古くて新しい翻訳上
のジレンマである「直訳か意訳か」の問題、それとの関係で異語を自らの文
化に馴致する同化の翻訳と、異文化への距離をあえて残す異化の翻訳との間
で思考の転倒が起こる事態が、きわめて実践的な経験に基づいて提示されて
いる。また翻訳の歴史的な文脈において、翻訳者としての鴻巣友季子は自ら
の立ち位置を「翻訳者=一読者」という「シンプルな考え」に到っていると
する述懐とともに、水村美苗との対談の中で、「翻訳が困難な小説ほど翻訳
すべき要素、伝えるべき要素が詰まっているし、そういう作品にはむしろ言
語の壁を突破する力を感じるんです」という発現に私は深くうなずくものが
あった。(なかむらくにお氏=作家・大東文化大学教授)

  

 過去の書評


 『完全版・池澤夏樹
     の世界文学リミックス』

 『屍集めのフンタ』

 『世界は文学でできている』

 メルラーナ街の混沌たる殺人事件

 マハーヴァギナまたは巫山の夢

 『本の森 翻訳の泉』