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「チェーホフの夜」の論評
 
 生野毅氏(詩人、エッセイスト)が、中村邦生の「チェーホフの夜」を「記憶の残
照」で論評。この小説の冒頭の読解から、2011年3月11日以降の「命」の問題を
見据えつつ、〈記憶〉と〈忘却〉のテーマを論究したもので、読む進めるうちに自分
の書いた作であることなど意識から遠ざかり、その思索の軌跡を息を凝らすように
して文を追った。このすぐれて重要な評論を読んで、かなり時間が経過してしまっ
た。もっと早く紹介すべきだったのだが、引用したいところが多々あり、しかしその
いずれも部分として取り出し難く、考えあぐねているうちに遅滞を生じた。
 掲載されている雑誌は、以下のとおり。特集は「命」で、充実したエッセイ、論考
が掲載されている。発行者である篠原誠司(足利市立美術館学芸員)による、
増剛造への写真集をめぐるインタビュー「彼処からのまなざし」は興味深い証言(中
上健次からの示唆とか)も含み、面白く読んだ。
『Infans』16号、 発行所:ART  SPACE(artspace@h6.dion.ne.jp)




① 『転落譚』の書評・1
  平井杏子氏(英文学者・作家)が、長崎新聞の連載コラム「うず潮」
(2012年6月5日号)で、『転落譚』を取り上げてくださった。「驚き」の小
説として読んでいただいことは、まことに嬉しい。以下、全文を転載する。


  ずっと気になっていた小説をようやく読んだ。中村邦生の 『転落譚』 という
本である。すでに出版から一年近くたつが、広く話題になっている本というわ
けではない。でも、私のまわりの小説好きの知人たちからは、「ふしぎな小説
でね、読んだらかならず人に話したくなるよ」と薦められてきた。いわゆる〈奇
書〉のたぐいは、読むのに気合いがいるので、ついこれまで先のばしになって
いたのだ。
  さて、読んでどうだったか?
  驚いたの一言。まず物語の発端が、おもしろい。ある人物が小説を読みな
がら、まどろんでしまう。そのうちに、ばたりと本が落ちる。すると、たまたま開
いていたページに出ていた登場人物が、あろうことか本の外に転落して気を
失うのだ。 目覚めたときには、誰の何という小説のなかに存在していたのか
思い出せない。もどりたいのに、もどれない。『転落譚』は、この不思議な登場
人物が主人公である。
  本から落ちた登場人物は、 作中にいたときのかすかな記憶の感触を頼り
に、もどるべき場所を求めて、あちらこちらの小説をたずね歩く。作中から外
への転落によって、二度目の生を得た主人公の 「私」が、故郷を探して古今
東西の小説をつぎつぎと遍歴する。この小説から小説への冒険の旅が、おの
ずと読書ガイドあるいは書評のスタイルになっている。 さらに、他の小説のな
かに入りこんで書き換えてしまったり、同じ転落の運命をもつ人物と出会い、
意気投合したり、うまく利用されたり、作者とおぼしき「中村邦生」なる人物と
対決したり、 いたるところで虚と実がよじれてめまいを覚えるような奇想天外
な物語が繰り広げられる。
  ところで、この小説の 「あとがき」も作品の一部になっていて驚く。それがま
ったく意外な場所にひそんでいるのだ。読みごたえのある本だけど、残念なが
ら、昨今の書店で見つけるのは難しいかもしれない。




② 『転落譚』の書評・2
 気鋭の日本現代文学の研究者・高山敏幸氏(岐阜第一高等学校・
教諭)が『日本文学研究』(大東文化大学・日本文学会発行)51号に、
見事な書評を寄せてくれた。作者が「見事」と呟くのは、評価されると
か批判されるとかいったレベルの関心を退け、軽々と忘却させる鋭い
批評性に、思わず対峙させらるからに他ならない。高山氏はこれまで
私の全小説を論評してきたただ一人の研究者である。
 私は氏の評を読むたびに、新たな「自己」 を発見する思いで、たじろ
いできた。今回、小さな媒体なので、全文を転載させていただきたい。


高山敏幸『転落譚』書評

  『転落譚』 は小説じゃない。評論じゃない。随想でもない、手紙じゃない。真
剣な顔で小説を咀嚼しているあの熱っぽい書評や、論文の一部を引用した日
記、その備忘録、あるいは人生そのものを偽装しようとしている自伝でもない。
作中に引用されているドナルド・バーセルミの「無―予備録」 の一節をもじって
そう定義しよう。そのような、否定形の積み重ねでしか形容のできない作品で
ある。しかし、あくまでも(であるからこそ)本作は稀代の文芸作品である。
 本書は、水声社発行の文芸誌 『水声通信』一号(二〇〇五年十一月)から、
十三号を除く三十三号(二〇一〇年七月)に連載された 「記憶の感触――転
落譚」 に加筆訂正したものである。物語の語り手である「私」は、ある小説の登
場人物だが、読書中の睡魔からか、あるいは 『ハムレット』で王を演じている俳
優の演技からか、あるいはそれ以外の理由からか、とにかくどこかで読み手が
落とした本から転落してしまった。転落時の衝撃からしばらくのあいだ昏倒して
しまっていたせいで、即座に本文に帰還できなかった 「私」は、気がつくとX氏
の汗牛充棟たる仕事部屋に倒れていた。その上、自らの出自も忘れてしまって
いた。そのような事情から、「私」 は自分を 〈引用体〉 と定義し、自分のいるべ
き場所、すなわち「出典」への帰還を求め、記憶と「小説」とをたどる旅に出る。
むろん、〈語ること=騙ること〉 に自覚的な作者のことである。帰還の旅は、一
筋縄ではいかない。
 そもそも、故郷の地、「出典」の探索は場所どころか、時代、言語を問わない。
夏目漱石 『三四郎』から始まり、ウィリアム・フォークナー 『アブサロム、アブサロ
ム!』とエラリー・クイーン『Yの悲劇』 の匂いにふらふらと引き寄せられ、『それ
から』 の白百合に足踏みする。あるいは、『ハムレット』の優柔不断さを「タフなし
たたかさ」と肯定的に解釈し、松岡正剛 『フラジャイル』 の「弱さ」 と「強さ」との二
項対立の脱構築を経由して、谷崎潤一郎 『蓼喰う虫』のサンドイッチに思いをは
せる。そして、武田泰淳 『ひかりごけ』、大岡昇平 『野火』の考察を経て、吉行淳
之介の 『食卓の光景』 を横目で眺めながら、日野敬三 『台風の目』のゲリラの若
者の公開処刑に手掛かりを見つけ……。
 日本、イギリス、アメリカ。その他の国々の文学作品から、想起された風景、匂
い、味などの五感や観念を頼りに小説内を捕猟していく知性のたゆたい方は、
堀江敏幸の『河岸忘日抄』を連想させる。あるいは、フィクショナルなアンソロジ
ーや文芸理論書として読むことも可能かもしれない。だが、本作の魅力は、なに
よりも物語を駆動させる千鳥足めいた自由奔放な「語り」が持つ独特な疾走感に
ある。
 作中には 「私」 以外の〈引用体〉が登場するが、彼らの 「語り」は饒舌で、地の
文と区別がつかなくなってしまう箇所もある。例えば、『ひかりごけ』の船長の野卑
で、それゆえに切実な地の文に「私」が追われる悲惨とも滑稽ともつかない一節
がある。また、室生犀星『蜜のあわれ』の金魚にリリカルに諭され、室生犀星本人
かつ、太宰治 『津軽』のたけであり、しかも『親友交歓』 の自称親友でもある男の
声に叱咤される。あるいは、ドストエフスキー 『悪霊』 のスタヴローギン、『白痴』の
ムイシュキン公爵、『カラマーゾフの兄弟』 のアレクセイ・フョードロヴィッチの白熱
した鼎談。それらの「語り」がポリフォニックな言説空間を生成し、それが 「私」の「
語り」 をも変容させていく。その言説の海の豊饒さが、小説というメディアが持って
いた 「語ること」 の根源的愉楽を思い出させてくれる。
 そのような技法は、一歩踏み間違えれば、登場人物に「小説とは何か」 を語ら
せるような、メタフィクションにありがちな自己言及的袋小路を招いたかもしれな
い。しかし、本作はむしろ、その徹底によってその窮状を内破させている。「信頼
ならない語り手」を言うまでもなく、「私」の語りは信用できない。いや、「語り手」
と評することもできないかもしれない。そもそも、「私」はある小説の登場人物で
ある。しかも、そのような物語である 『転落譚』 の登場人物たる 「私」(付言する
なら、作中に〈中村邦生〉まで出てくる始末である。評者は 〈中村邦生〉による 「
謹告」 前後に笑いを抑えきれなかった)。ここでは、あらゆる位相の 「語り」がね
じれて同一次元に還元されてしまうことによって、「『文学』について語る文学」が
成立している。いわば、本作は自己言及的に増殖する引用を、自らの言語と化
しつつ展開させることによって、それを語る行為=物語そのものが「文学的」であ
ることを逆説的に浮上させるというアクロバティックな方法を発掘したものである
といっていいだろう。物語とカバー裏に隠されたあとがきとが、登場人物である 「
私」と作者とが、X氏の書斎と 『転落譚』 とが相互参照しあい、言語システムの
熱暴走と失調を招くが、そうすることで純然たる文学空間を担保している。評者
は 『日本文学研究第五十号』 で中村氏の前著 『チェーホフの夜』を評する際、
「文学」について、「口角に泡をためつつ自己言及的に追っていっても、なにも立
ち現れなどしない」と述べた。撤回する。本作は自己言及そのものが文学である
ことを証明してくれた。
  「もし、私の記憶していることが、エピソード記憶だけでも、同時にいっせいに意
識に現前すれば、この超氾濫状態のために私の意識はたちまち瓦解するだろう」
と、作中に中井久夫の 『兆候・記憶・外傷』 が引用されている。そのような意味
において、「私」 がもくろんだのは、目眩がするような文学的「索引性」の超氾濫
状態ともいえるだろうか。同書において、中井久夫はプルーストの 『失われた時
を求めて』 を 「ひとつの「メタ世界」の索引そのものであり、書かれた文章は索引
にすぎない」 と指摘しているが、それは本作を評する上でも参考になる言葉だろ
う。
 そういえば、中村氏と千石英世の共著 『未完の小島信夫』に、次のような一節
があることを思い出す。「私は本を読む、と同じく、本は私を読む」。本書にも「我
々自身が実は他の誰かが読む本ではないか? 我々の生は実は読書の時間で
はないのか?」というエルネスト・サバトのボルヘス論の言葉が出てくる。そのよう
な箴言は、もしかしたらありふれているのかもしれない。だが、それを実作品とし
てしたててしまう筆者の力量に敬服する。本作は、語ることの禁欲さのなかにあ
る小説の力を引き出した前作 『チェーホフの夜』の陰画となるべき作品だろう。
もちろん、その対角線上の先にあるのは引用のみで成立した作品、すなわちア
ンソロジーである。そのような意味では、アンソロジーの仕事もある著者の他の仕
事と本書とを符合させる試みも可能かもしれない。




③ 『転落譚』の書評・3

 『大東文化』(2012年1月21日号)に生野毅(詩人・文筆家)さんが
書評を寄せてくださいました。この小説の「奇怪な暴走」ぶりに触れた
評から、実は『転落譚』とは記憶のカニバリズムを描いた小説であった
のか、と改めて作者が教えられた次第。
 以下は結びの文です。
 


「作中人物」への旅は他ならぬ世界という他者を経験する
ことでもあり、それ故「私」は『記憶の人、フネス』の不
滅の記憶や『追憶売ります』のダグラス・クウェールの脳
に挿入された疑似記憶に戸惑い、最晩年の大森壮蔵の、世
界の「天地有情」の境地に爽快感を覚えるのだが、『転落
譚』の「内と外」に怪しく?出没して「私」を混乱させる
〈中村邦生〉こそが、読者という無数のプラナリアたちの
「記憶」をいつしか喰い始めないとも限らないのである。




④ 『転落譚』の書評・4

 『図書新聞』(2011年11月26日号)に八木寧子さんによる、まさし
 く眩暈におそわれるような、それ自体「書評の愉楽」と呼びたいよ
 うな
『転落譚』のブック・レビューが載りました。


「幾度も反転する世界。乱反射し多重光となって降
り注ぐ言葉の粒子。書物と書物の電圧が起すミラー
ジュ(蜃気楼)が無数に立ちのぼるような眩暈に襲
われる。と、ここまで書いてきて、この感触に言い
ようのない懐かしさを覚えている自分に気付く。「
記憶は細かい気泡のような目に見えない粒子となっ
て人々の頭から抜け出し、宙を舞っているらしい…
…。」
 これは、〈中村邦生〉の前作、「チェーホフの夜
」の一節ではないか。私=評者すらももしや、何か
の小説の作中人物であったかもしれない。そしてふ
たたび、あの微睡み、泥濘の温もりの感覚に包まれ
る……。」

(本文より)



⑤ 『転落譚』の書評・5

 鴻巣友季子さんから、ご自身の書評コラムの中で『転落譚』に触れてくださったこ
 とをお知らせいただきました。 『本の雑誌』(2011年9月号)です。短い言及です
 が、フェリッペ・アルファウ(『ロコス亭 奇人たちの情景』)、ボルヘス(『砂の本』)
 との併読を勧めていて、そうすれば「贅沢な夜がすごせそう」とあり、中村邦生自
 らもそうしたくなった。



⑥ 『転落譚』の書評・6

 『週刊読書人』(2011年9月2日号)に芳川泰久(文芸評論家) 
 による『転落譚』の書評が出ました。自分の本が対象になってい
 ることをしばし忘れて、その卓抜な批評言語を味わいました。


「私が個人的に最も堪能したのは、巻末めがけて
「私」をめぐる物語が刺激を増すにしたがい、う
なるような文章が、それでもテンポよく、物語の
急を告げるからで、その前後に召喚されるプルー
ストも彷彿とさせる冗舌体に、読書のリズムを支
配され、運ばれていく快感である。本書は、「私」
という書物の累乗爆弾を見事に発明した」
(本文より)



⑦ 『この愛のゆくえ』の書評

『図書新聞』(2011年9月10日号)に図書新聞社の文芸担当の編
集委員による書評が出ました。アンソロジーから、代表的にいくつ
かの作品が論評されていて、読みの要点が実によく解る文章です。
小さな拙作に触れてもらったのも嬉しいことです。


「表紙に使われているロスコの絵画にインスパイア
された、編者本人の手による可憐な短篇も「解説」
に収録されている。何度も大切に読み返したくなる
アンソロジーの誕生だ」
(本文より)